先日、「やっぱり変だよ 日本の営業」について触れたが、著者の宋 文洲氏の「自国文化に誇りを持つ“過ち”」という11月22日の投稿が目に留まった。

こうして日米企業の間で、架け橋となるような仕事をしていると、兎角、日米文化の差からくる物事の考え方や商習慣、ユーザーの期待の差などが話題になる。そして、日本人のこだわり、良さはアメリカ人には理解してもらえないだろう・・・という祖国を遠くからみると出てくる、自国文化の誇りからくる、相手の理解の限界というか諦めを持つ瞬間。しかし、そのままだと絶対に解決策は見えてこない。

宋氏が上記投稿で次のように述べている。
引用:
よく「独自文化」を誇りに思うと言いますが、純粋な「独自文化」はそもそも本当に存在するものでしょうか。外の文化の影響を受け、外の文化へ影響を与え、その交流を通じて脈々と繋がっていくのが文化です。滅びていく文化は、大体この繋がりと交流を断ち切った文化であると言えます。
引用:
日本独自の文化は、中国や韓国の影響も遠く奈良・平安時代よりも前から影響を受け、人的交流もあり、日本人とその風土で熟成され、独自と呼べるものになった。日本人は物真似が上手なのではなく、良い部分を吸収し、自分のものにしていくことには積極的な国民なのかもしれない。そういうふうに積極的に捉えると、何事も独自性に欠けて、物真似と卑下する前に、それを吸収し、昇華した結果まで根気強く改善していくことも文化だろう。

文化は誰かが伝えられるものではなく、風や雲のように国境と関係なく自然に伝わる人類の「心の気候」だというコメントにはとても爽やかな気持ちになった。

その「心の気候」を創り出す土壌の家庭や地域社会の崩壊というか、学校の勉強以前の教育問題が取り出されている日本社会の問題は、紛れも無く大人の私たちの責任だと思う。